馬酔木の生立ち

生立ちを少しずつ記録していきます。

お正月

私の小さい頃のお正月は、3ヵ日とも、町が死んだように静かだった。


今と違って、開いているお店なんて1軒もない。


もちろんママのお店も休みだ。


私はこの静かなお正月が大嫌いだった。


近所の友だちとも遊べない。


お年玉も常日頃から人にお金を貰っていた私にとっては
全く特別なことではなく、嬉しくなかった。


でもこのお正月だけは、母は私と遊んでくれた。


ゲームの相手を何回もしてくれた。
何回も、何回も


小さな子ども相手のゲームなんて母にとったら退屈なことだったと思う。
それでもずっと相手をしてくれた。


そのことだけがお正月の楽しみだった。




いくつの時だっただろう。


父母が自分たちのお店を閉めて、
父がサラリーマンをしていた時だから、
私が小学校の低学年の頃だったと思う。


お正月だと言うのに、父が出社しようとしている。


会社の工場でトラブルが起きたのだとか。


泊まりになるとか。


そんな父を、母は心配そうに、
そして休日出社を気の毒そうに見送っていた。


私は小さかったのに、この時のことを鮮明に覚えている。


そして大人になって思った。
この時父は会社になんか行ってないと。
女の人と旅行に行ったのだ。


何の証拠もないが、
結婚して旦那に浮気ばかりされていた女の勘だ。

あたたかい家族ごっこ

昔は、近所の子どもたちは家の前の狭い道で年齢関係なく一緒に遊んだものだ。


小さい時は広い道のように感じたが、
大きくなってそこへ行ってみると、
端から端まで大きく3歩で渡れたのには自分でも驚いた。
そんな狭い場所で10人くらいがひしめき合って遊んでいたんだ!


上は小学校高学年、下は幼稚園児まで。


缶蹴り、鬼ごっこ、ドッチボールもしたっけ。
(当時、私の住む地域では、ドッチボールのことを「箱ドッチ」と言っていた)


鬼ごっこの時は小さい子どもは「フーコー」と言って、
つかまっても鬼にならなくてもよかった。
「〇〇ちゃんはフーコーな!」
いつも私はフーコーだった。


自然と縦社会、小さい子や弱い子を思いやる気持ちが養われたと思う。
いい時代だった。





そんな時、近所でいつも遊んでくれる子の誕生会が開かれた。


誕生会と言っても今の時代のようなものではなく、
その誕生児の家へ行ってジュースやお菓子を食べながら遊ぶくらいの簡単なものだ。


いつもの近所の子たちが呼ばれたが、
誕生児の学校での友だちも呼ばれていた。
その学校の友だちの中に、私にとても優しくしてくれるおにいさんがいた。


私にとってもいつもの近所の仲間と遊ぶものではない特別な会になったのを覚えている。


そのおにいさんとはそれっ切り会えないのだが、
ママの家で夜一人で過ごす時間、わたしの中で家族ごっこが始まった。


優しいお父さん、お母さん、そして兄がいる家庭。


兄はもちろん、あの誕生会で会ったおにいさん。


私は一人で何役もこなし、
おにいさんに優しくしてもらった場面を再現していた。



今思い返すと切ない。

贅沢

子どものいないママは私のことを本当にかわいがってくれた。


でもその愛情表現は物を買い与えることでママ自身が満足していたように思う。


欲しいおもちゃはほとんど買ってもらえた。
テストでいい点を取ったとか、通知簿の成績が良かった時とか、学級委員に選ばれた時も買ってもらえた。


逆に、誕生日プレゼントだとかクリスマスプレゼントとかを買ってもらった記憶がない。


そして洋服もいっぱい買ってもらった。
でもそれは私の好みは反映されず、いつもママの好みのものばかりだった。


私が好みの服を選んでも「こっちなら買ってあげる」と言われ、
私の意志は通らなかった。
私もそんなものだと思っていた。





お店で使う食器をデパートに買いに行くことがあった。
デパートに着くと最初におもちゃ売り場に行って、私にお人形を買ってくれる。


それから食器売り場へ。
人形を買ってもらってご機嫌な私はおとなしくママの買い物に付き合う。
そんなことをしてまで私を連れて行かなければいいのに…。


帰りにパーラーに寄って美味しいものを食べてタクシーで帰る。
贅沢な話だ。


パーラーと言えば、
普段の買い物のためにスーパーへ行った帰りも、
喫茶店に寄ってレモンスカッシュを飲んだり
サンドイッチを食べたりすることが多かった。


これまた贅沢な話だ。


今の私の生活からは考えられない…