馬酔木の生立ち

生立ちを少しずつ記録していきます。

アフター

ママのお店は繁盛していた。
毎月20日のみが休みなのだが、20日もお客さんが来て、
ママはせっかく来てくれたお客さんを無下にもせず対応していた。


昼間はママもばあちゃんもお店に出す料理を仕込み、母は全室の掃除をしていた。


私は母になって、子どもを毎日公園へ遊びに連れて行ったが、
私は公園へ連れて行ってもらった記憶がない。


もちろん、家であそびの相手をしてもらった記憶もない。


しかし、ママにはたくさんの玩具を与えてもらい、いつも一人で遊んでいた。


はやりの玩具は全て持っていたように思う。


リカちゃん人形は3体も持っていた。


髪が伸びる人形やママレンジも持っていた。



ママの旦那さんは私が生まれる前に亡くなっており、未亡人なのだが、
お店に出るためか、毎日のように美容院へセットに行き、きれいにお化粧していた。
とても美人なので、お客さんにもモテた事と思う。


お店が終わった後もお客さんに誘われることが多々あったようだ。
今で言う「アフター」みたいなものだろう。


その「アフター」に私もついて行かされることがよくあった。


今思えば、ママは自分の身の安全のために幼い私を連れて行ったのだろう。


そんな内情は知ることもなく、
その時間まで一人で寂しく遊んでいた私は、
お出かけとあって喜んで付いて行った。



日付けが変わろうかと言う時間にこんな幼い子どもを連れまわす。



心がゆがんでも仕方のない生活だ。

ばあちゃんのこと

ばあちゃんは明治生まれで、
私にとって戸籍上は曾祖母になるが、
本当は母の母である。


何人も子どもを産んで、半分以上が戦争や病気で亡くし、
本当に辛かったことと思う。


背が小さく体は丸く、コロンとした体型だった。
お腹がまん丸で、
「スイカが入っている」っ言葉を信じていた。


髪は生まれてから切ったことが無いと言っており、
自分の身長と同じくらいの長さだった。


朝の身支度では、鉄のコテを台所のコンロで熱し、長い髪を挟んでウエーブを付けていた。
今で言うヘアアイロンだ。
ウエーブを付けた髪は上手に丸められ、うなじでお団子にされる。
その一連の作業を見るのが私は好きだった。


ばあちゃんの肌はとってもきれいで、
薬局で買ったグリセリンを塗るだけで、他は何も塗ってないのに色白で
つるつるの肌だった。
口紅すら塗っているのを見たことが無かった。


ばあちゃんも若い頃の写真を見るととっても美人で、ママもばあちゃんに似たのだろう。
母は決して美人とは言えない顔だった。
私も母の血を受け継いだと思う。





ママの家で寝る時は、いつもばあちゃんの布団で一緒に寝た。
ばあちゃんはおとぎばなしをしてくれたり、子守歌をうたってくれた。


♬ねんねんころりよ、おころりよ~
 坊やの・・・・どこへ行った
 あの山越えて里へ行った~


思いだ出せない…
誰かが蜂に刺される内容の歌詞だったような…




以前にも書いたが、
ママはばあちゃんに対してとってもきつく当たっていた。


幼い私はその原因を知ることもなく、
カースト制度に則って生活するにあたって
ばあちゃんは下位だから仕方がないものだと思っていた。


結局ママは、馬の合わないばあちゃんを追い出し、
ばあちゃんはママの弟の家に引き取られて行った。


今思えば、ママがどれだけきつくても、
お嫁さんのいるおじさんの家よりも
実の娘の家に居たかったに違いないのに。


小さいながらも、
「ばあちゃんがおらんくなったら寂しい」とか
「行かないでほしい」と言わなかった私は
ママと同罪のように思える。


それから数年後、ばあちゃんに
私より弟の方がかわいいと言われたのも仕方のないことだと思う。

母のこと

母も田舎育ちで、末っ子で、のんびりとした性格である。


父と母の性格はまるっきり反対で、
どうしてお互いが惹かれて結婚に至ったのか謎である。


父と母は歳が離れているので、
父は母の頼りないところも可愛いと思ったのだろう。


母も父の「俺について来い!」みたいな
頼りがいのあるところに惹かれたのだろう。


そう言う環境で育った私も「俺について来い!」みたいな男性でないと魅力を感じない。


母とママは親子ほど歳が離れており、
父と結婚して間もなく、ママ夫婦と養子縁組をしたようだ。


ママ夫婦は財産もたっぷりあったから、
父母とも乗り気で話はすぐにまとまったに違いない。




私は母のことも大好きだった。
とても若い母で、そのことが自慢だった。
そんなことを自慢しても何にもならないのに、
友だちにお母さんの年齢を聞いて、母の方が若かったら嬉しかったし自慢した。
たまに母より年下のお母さんがいると、腹が立った。
相手は若かろうがそうでなかろうが、どうでもいいことだっただろうに。
でも他に自慢できるようなことはなかった。


母自身も子どものような性格で、でも子どもの気持ちがわからない人だった。


小学校の時、みんな水筒でお茶を持って来ているのに、私は持たせてもらえなかった。
喉が渇くと水道の水を飲んだり、友だちのお茶を分けてもらったり。
家にも子どもが喉が渇いたらゴクゴク飲めるような番茶や麦茶などはなかった。


水筒を持って行かないと娘が困るって発想が母には無かったのだろうか。


ある日、友だちにお茶を貰おうと自分のコップを差し出したところ、
何日も洗っておらず、コップが茶渋だらけで恥ずかしい思いをしたことがあった。
台所の洗い場に出さなかった私が悪い。
自分で洗わなかった私が悪い。


でも親になった私は、
子どもがカバンから出さないお弁当箱を「もうっ!」って言いながらも洗ってやる。
「いい加減にしなさい!」と言いながら出すことを促す。


母はそう言うことをしない人だった。
子ども自身が恥をかいて思い知らせるような人だった。